■イラク邦人人質事件
イラクで日本人3人が人質にとられた事件はいまだ解決の見通しが立っていません。
アムネスティ・インターナショナルのニュースリリース、パレスチナ子どものキャンペーンの声明文、反差別国際運動日本委員会の声明などでも指摘されているように、まず非難されなければならないのは、国際人道法に違反して3人を人質にとった武装グループの行為であることは確かです。自衛隊の撤退は必要だと平野も考えますが、だからといって、民間人を人質にとって要求をつきつけるという行為を正当化することはできません。
そのことを前提にしつつも、この事件をめぐる日本政府の対応や一部世論の論調のひどさにはやはり目に余るものがあります。子どもたちは、昨年の10大ニュースの1位に、おとなたちが選んだ「阪神優勝」ではなく「イラク戦争」を挙げました(更新日記「子どもが選んだ10大ニュース」参照)。このように世界を真剣に注視している子どもたちの多くは、いま、この国に対して深く静かに絶望しているのではないかと想像します。子どもたちの絶望感を少しでも払拭するためにも、最悪の結果を回避するための努力をひきつづき行なうと同時に、ひとりでも多くのおとながこの間の対応や論調に怒りを表明しておかなければなりません。
(1)即座に要求を拒否したことについて
自衛隊撤退という武装グループの要求に対して政府は、人質救出のためにあらゆる努力を行なうという姿勢を打ち出すよりも早く、即座に、そして繰り返し、「撤退はありえない」と明言しました。
国内で営利誘拐事件が起こったとしましょう。犯人から身代金の要求があったとき、頭から「身代金は払わない」と要求を拒否するバカが――あえてこの言葉を使いますが――どこにいるでしょうか。警察がそんなことを言えば(あるいは家族にそう言うよう強要すれば)、間違いなく懲戒免職ものでしょう。たとえ身代金を払うつもりがなくても、あるいはとうてい受け入れられない要求が出されてもいったんは対応する姿勢を示し、あらゆる可能性を探りながら人質の安全確保を最優先するはずです。
ところが、日本政府はそうしませんでした。このような日本政府の姿勢については、たまたま沖縄で目にした4月12日付沖縄タイムズの朝刊コラム「大弦小弦」が的確に批判しています。そして、「イラク日本人人質事件を通して見えたことがある。日本の政府は国民の命を守らない、ということだ。人命よりも国際的面目、はっきり言えば、米政府にどう思われるか、ということの方が重要なのだ」と断じています。絶望的なほど正しい指摘ではないでしょうか。
(2)「人命は地球より重い」について
そうかと思えば、「人命は地球より重い」という福田赳夫・元首相の言葉について、息子である福田康夫官房長官は「時代、意味合いが違う」と一蹴しました。この点についても、前掲「大弦小弦」は「どう違うのか。二十数年で国民の命の価値は低くなったとでもいうのか」と正しく疑問を呈しています。
もっとも、「人命は地球より重い」というのも情緒的かつ意味不明なフレーズであって、私たちはあまりこの言葉を振り回すべきではありません。ここで比較されているのが物理的な重さではなく価値の重みであることは明らかですが、人命を救うために地球を破壊してもよいというのはもちろんナンセンスです。人命が最大限に尊重されなければならない価値であることは確かですが、たとえばだれの人命を優先的に救うか判断しなければならない局面はいくらでも存在するのであり、そういうとき、このフレーズは何の判断基準にもなりません。
しかし、福田官房長官の発言はこのような趣旨ではなく、単純に「国民の命の価値は低くなった」としか受け取りようのないものでした。少なくとも現政権には、子どもたちに向かって「命の尊さ」を説く資格はもはやありません。
(3)「自己責任」について
「自己責任」を強調する一部世論の論調も憂慮すべきものです。マスメディアに少なからずこのような論調の意見が寄せられているようですし、3人の家族のもとにも、その悲嘆と心痛を顧みずにこのような批判・中傷が届いていると聞きます。日本政府も、「邦人保護に限界があるのは当然。自己責任の原則を自覚していただきたい」(竹内行夫外務事務次官)、「退避勧告に従わず(イラクに)入る人がいるが、そういうことはしてほしくない」(小泉首相)など、自己責任を強調するトーンを強めてきました。
なるほど、3人は危険を承知しつつあえてイラクに入ったのかもしれません。ひょっとしたら、万一のときにも日本政府に救ってもらうことなど考えていなかったかもしれません。しかし、彼らの意図に関わらず、在外邦人の保護は日本政府のもっとも重要な義務のひとつです。在外邦人の保護に限らず、だれかがどこかで命の危険にさらされていれば、その原因はどうあれ、救出のためにあらゆる手を尽くすのが公的機関の仕事なのです。
3人の家族が「迷惑・心配をかけて申しわけない」と感じざるを得ない気持ちもわかりますが、少なくとも政府は「けっして迷惑ではありません。それが私たちの仕事です」と表明すべきではないでしょうか。それなのに家族にも会おうとしない、あまつさえ「自己責任だから見殺しにしてもいい」と受け取られかねない主張を展開するのは、そもそも人として間違っていると思います。
危険を警告するとともに、保護のために何ができて何ができないかは明らかにしておく必要はあるでしょう。だからといって責任を放棄していいということにはなりません。また、3人のイラク入りについて冷静に評価することも必要ですが、それはあくまでも3人が無事に解放されてからの話です。
(4)「解放」方針声明について
武装グループによるものとされる「解放」方針声明についてテレビでいろいろコメントされていましたが、ほとんどは「数字の表記がおかしい」とか「広島・長崎の地名が間違っている」などと指摘してくだらない推理ごっこを展開するものばかり。
平野の第一印象は、「3人は武装グループと相当対話をしたのではないか」「あるいは、アルジャジーラに出演して懸命に人質の解放を訴えた吉岡達也氏(ピースボート)をはじめ、NGOの声が届いたのかもしれない」というものでした。依然として3人の解放は実現しておらず、「解放」方針声明は何だったのかという疑問は残ります。平野の第一印象が正しかったのかどうかもわかりません。
いずれにせよ、その第一印象と同時に平野が抱いた、「日本政府は、今回の事件が起こる前からイラク国民とこのような対話をしようとしてきたのか」という疑問はそのまま残っています。同時に、日本の私たちは、この声明を書いた人物が日本の状況を知っている程度にはイラクのことを知っているのだろうかとも感じます。政府を批判するとともに、イラクのことをもっと知り、子どもたちにも伝え、市民同士の対話と連帯を進めていかなければならないと痛感しているところです。
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