« ■CRINMAIL562号 | トップページ | ■子どもの権利条約と「愛情」 »

2004.04.06

■愛情があれば権利はいらない?

平野のまわりでも「児童の権利条約」批准10周年記念シンポジウムの話がときどき出ますが、話題の焦点はなんといっても、あるパネリストの「愛情があれば本来は『権利』なんかいらない」 発言。もちろん、子どもの権利条約の実施のあり方を考えるシンポジウムでなんであんな発言が出てくるんだろうという疑問から、です。

発言の趣旨は以下のとおり。――権利という「力」がなくても、子どもが声を出したりしなくても、すばらしい愛情があれば子どもはすくすくと育つはずで、そういうおとなの愛情がなくなったのがそもそもの問題である。家庭でも権利義務の関係で子育てをしているわけではなく、権利は最後の最後の手段でなければならない。おとな社会が子どもの成長発達をつぶしているから権利が必要になるのであって、その場合の権利というのは、自立的主体として成長発達するプロセスを保障する、子ども期特有の権利である。子どもが「こんなぼくを抱えてくれてありがとう」「わがままを言ってごめんなさい」と言う力を持ってきちんとしたおとなになっていくためには、子どもをありのままに認める無償の愛がなければならない。そういう人間関係を通して愛される権利を保障したのが、条約12条(意見表明権)である。国連・子どもの権利委員会の勧告にはぜんぶこれが盛りこまれている。……

「ごめんで済めば警察はいらない」という言葉は「ごめんでは済まないから警察が必要だ」という意味で反語的に用いられるわけですが、「愛情があれば『権利』なんかいらない」という発言はそのままの意味のようです。「ごめんで済めば警察はいらない」のほうがまだ現実味があり、実際、警察はなくならないにせよ、裁判ではないインフォーマルな手続で問題解決を図ろうとするとりくみも国際的には広がりつつあります。しかし「愛情があれば『権利』なんかいらない」となると、そういうわけにはいきません。

第1の問題は、何が「愛情」かは人によって大きく異なるということです。というより、共通の合意を持つのは不可能と言ってもよい。個人にどのような権利が認められるべきかについても議論の余地はありますが、国際法や国内法で成文化されているものがベースになるだけ議論は成立しやすいし、実際にも建設的な議論が交わされてきています。ところが「愛情」ということになると、束縛する「愛」もあれば見守る「愛」もあり、「愛の鞭」という言葉に象徴されるように殴る「愛」もあれば、極端な例になると障害児殺しや親子心中のように殺す「愛」すら主観的には成立しうるわけです。「それは本当の愛ではない」と言ったところでなかなか話は進みません。

このような愛の主観的性質を如実に表していたのが、当のパネリスト自身が持ち出したたとえ話でした。すなわち、同窓会で午前様になって帰ってきた妻(夫)を夫(妻)が仁王立ちになって出迎え、「(元カレ・元カノと)うまいことやってたんだろう」と怒鳴ると家庭は崩壊するが、「こんなに遅くなるほど楽しかったんだね、よかったね」と温かく迎えればいっそう愛は深まると言うのです。会場の失笑・苦笑はこのとき最高潮に達しました。そりゃそうでしょう。愛とはそんな単純なものではないからです。怒鳴られて「こんなに自分のことを愛してくれてるんだ、心配させて悪かったな」と思う場合もあれば、温かく迎えられて「自分が夜遅くまで連絡もせずにふらついててもどうでもいいんだ」と思い、それが夫婦の破局につながる場合だってあります。

愛情がこのように主観的で不確かなものである以上、その愛情はもう少し客観的な何らかの基準にもとづいて検証されなければならないし、愛の名のもとに被害が生ずる場合にはだれかが介入しなければならない。その検証・介入のための基準としていまのところもっとも適切なのが「権利」概念だと考えます。親子関係に条約は直接適用されませんが、そこに掲げられた権利は親子関係を振り返るためのひとつの有益な指針となるでしょう。そして親子関係で虐待が生じたときは、それが真の愛情にもとづくものではないからという理由ではなく、子どもの権利の侵害であるからという理由でだれかが――いまの社会においては国が――介入しなければならない。親のいない子どもを養子にするのも愛情にもとづく行為であることは多いでしょうが、その愛情がじつはおとなのエゴの表れにほかならないことも少なくないからこそ、裁判所の関与をはじめとする手続的保障が重視されているのです。

第2に、子どもの権利が関わっているのは親子や教師-生徒のような親密な関係だけではないという問題があります。前述したように条約は親子関係には直接適用されませんので、むしろそうではない関係において権利が問題とされなければならないことが多い。国と子どもとの関係においても何よりも「愛情」が問題にされなければならないのでしょうか。そうではないでしょう。国が――具体的には国の職務として子どもに接する個人が――「愛情」にもとづいて行動する社会など、あぶなっかしくてしかたありません。やはり具体的な子どもの権利を定め、国にはそれらの権利を確保・促進するという義務を果たしてもらわなければならないのです。このパネリストによって展開された意見表明権(条約第12条)還元主義は、前回の報告で記したとおり、ノルウェーの子どもオンブズマンであるトロント・ワーゲさんによってやんわりと否定されました。

教師-生徒の関係も、やはり「愛情」を基盤にしてもらっては困ります。今回の発言では生徒に対する教師の愛情がなくなったのが問題だとも主張されていましたので、やはり愛情にもとづく教師-生徒関係が理想とされているのでしょう。たとえば金八先生でしょうか。個人的にはまっぴらごめんですね(笑)。教師と生徒とのあいだにこのような愛情関係が成立しうる場合もあるでしょうが、それはあくまで「たまたま」そうなってよかったという話であって理想化すべきものではありませんし、親や教師に、ましてや子どもや生徒に押しつけてよいものではありません。

第3に、いまも述べたように愛情関係というのは「たまたま」成立するものであって、だれかに義務づけることのできる性質のものではないということです。必要なものは、たとえ愛情にもとづく行動を起こす人がまったくまたはほとんどいなくても、用意しなければならない。もともと篤志家の献身で始まった孤児院が児童養護施設として制度化されるようになったのも、そういうことです。同様に、生徒に愛情を抱く教師がまったくまたはほとんどいなくても、学習権等の権利保障のために必要な条件は「権利」として整えられなければなりません。制度のなかで愛情にもとづく関係が生まれる余地はあるでしょうが、それをあてにしていてはいけないのです。

この手の議論を展開する人たちは、どこかで理想のおとな(親・教師・指導者等)像を設定し、そのようなおとながいれば予定調和的に子どもとの関係がすばらしいものになるという幻想にもとづいて話をしているるように思われます。古代ギリシアの「哲人政治」や中国の「聖人政治」思想を思い起こさせる主張です。しかしそのような哲人や聖人をあてにすることはできないし、仮に哲人・聖人がいたとしても権力を持てばやがて腐敗することを歴史のなかで学んできたからこそ、人類は民主主義や三権分立のしくみを発展させてきました。同じことはおとなと子どもの関係にも言えます。理想的なおとなにめぐりあえることなどそうそうありませんし、理想的に思えるおとなでも過ちを犯すことはあるわけですから、せめて基本的な権利は保障されるような体制とチェック・アンド・バランスのしくみを作っていかなければならないのです。いわゆるケアリング(caring)な関係をどのように支援・促進していくかはひとつの論点ですが、それは権利を否定したところから始めるべき議論ではありません。

今回の「愛があれば『権利』なんかいらない」発言で思い出したのは、人権啓発を担当するある準公的機関がかつて使用していた啓発ポスターでした。「愛が、人権を守る」というコピーとともに、マザー・テレサの写真をあしらったもの。やれやれ、と思いました。マザー・テレサの功績は偉大でしたが、それ以前に、なぜマザー・テレサがやらなければならなかったのかを考えなければならない。それは、彼女が救おうとした人々を世界が放置していたからなのではないでしょうか。言い換えれば、世界は本来果たすべき責任を放棄して彼女におっかぶせていただけ。マザー・テレサを過剰に礼賛し、「愛が……」などとうそぶいて問題の所在を曖昧にすることは、人権啓発担当機関の職務に反すると感じたものでした。「愛情」にもとづく議論はこのようなすりかえを容易にしてしまいます。

また、だれもがマザー・テレサのようになれるわけではありません。英雄願望の危険性はつとに指摘されているところですが、聖母願望も同じこと。私たちはマザー・テレサも、理想のおとなも、期待してはいけないのです。たとえ相手を愛していなくてもおたがいに尊重しあっていこう、あるいは相手を殺してやりたいとすら思っていても最低限共存はしていこうという合意を、普通の人が無理なく生活するなかで共有・実践していける社会をつくっていかなければならない。そのときの指針が「人権」であり、それがある程度保障された社会のなかで、たまたまめぐりあった愛を、あるいは探し求めてようやく見出した愛を、はたまた愛というほどのものでなくてもそこそこ楽しめる関係を、それぞれ謳歌していけばよいのです。

|

« ■CRINMAIL562号 | トップページ | ■子どもの権利条約と「愛情」 »

コメント

 実は先週参加してきた人権に関する合宿の食事の時間でも「愛」が問題になりました。フィリピンの憲法には「愛」とか「霊的な」といった言葉が出てきて、果たしてそれらは司法的に説明・定義できる言葉なのか、という疑問が含まれていたと思います。

 平野さんが指摘しているように、「愛」は主観的なもので、愛を介在させると正義とは反対の結果が生まれてしまったりします。例えばフジモリ元大統領を匿うことを愛の名の下に行なうという実例が存在しますが、この場合、愛は人道に対する罪への処罰を消してしまおうとしています。

 ちなみに、「霊的な」という言葉のほうはいわゆる修復的司法がカウンセリングなどとつながっていて、カウンセリングの世界では「霊的な回復」といった言葉が存在するので、司法の場で使われることがあったような気がします。

投稿: 大河原 | 2004.04.06 22:48

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/10627/403342

この記事へのトラックバック一覧です: ■愛情があれば権利はいらない?:

» ■子どもの権利条約と「愛情」 [ARC 平野裕二のサイト]
更新日記「愛情があれば権利はいらない?」に大河原さんからコメントをいただきました [続きを読む]

受信: 2004.04.08 06:34

» 理想のおとな 理想の子ども [Tomorrow is an absolutely beautiful day...]
平野裕二さんのblogからトラックバックしました。 「児童の権利条約」批准10周年記念シンポジウムに関しては、以前blogに書いた通りです。今回平野さんの文章を... [続きを読む]

受信: 2004.04.08 21:34

« ■CRINMAIL562号 | トップページ | ■子どもの権利条約と「愛情」 »