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2004.05.03

■平和・人権・NGO

*三好亜矢子・若井晋・狐崎知己・池住義憲(編)『平和・人権・NGO:すべての人が安心して生きるために』新評論・2004年

「平和」とは消極的平和(戦争やテロなどの直接的暴力のない状態)と積極的平和(貧困・失業・政治的抑圧などの構造的暴力のない状態)の両方が実現した状態であるとの基本認識のもと、平和と人権の関係、NGOが果たすべき役割などをさまざまな角度から論じた本。タイムリーで読み応えがある1冊です。

とりわけグアテマラ和平プロセスに焦点を当てた狐崎知己「『平和構築』と正義・補償:中米・グアテマラ和平プロセスから」(第11章)は、犠牲者の視点に立った和平プロセスとは何か、平和と人権がどのようにつながるかを考えるうえで示唆に富む指摘が含まれています。このような視点を共有すれば、本書の執筆者の多くが抱いている「平和構築」論への違和感もすんなり理解できるでしょう。

狐崎によれば、その違和感は次の2つを根拠とするものです(348-349頁)。
(1)「『構築』という人間味を欠いた社会工学的な用語と、紛争終結後も人権侵害の恐怖に怯える人々が思いを込めて訴える『平和』という言葉との結びつきの悪さ」
(2)「日本という国家の安全保障戦略の一環として『平和構築』論が持ち出され、……NGOでなければできないはずの紛争犠牲者の立場に立った活動が放棄ないし軽視されてしまう危険」

このような違和感は、「ジャパン・プラットフォーム」のような官民協力体制のあり方への疑問にもつながってきます。いずれの論者もこのような協力のあり方を全否定はしていませんが、「難民が発生した途端に、政府が指定した支援対象をめがけて『お助けします』と出かけるNGOは果たしてNGOの名に値するであろうか」という三好亜矢子の提起(387頁)、「早く助けたい」症候群と「配給依存症」という言葉を引きながら「独りよがりの目的合理性に偏った効率追求はNGOとしての独自性を失わせるばかりか、相手の人権を侵すことにもつながりかねない」と指摘する狐崎知己の警告(371頁)は、あらためて考える必要があるでしょう。

その他、グアテマラにおける人権侵害に日本のNGOが抗議したことについて、「日本のNGOの名で抗議がなされるならば、在留邦人に危害が及ぶ恐れがある」という理由で外務省が懸念を表明したという狐崎の記述(351-352頁)にも、考えさせられるものがありました。また、軍隊が人道援助に関与することについても、金敬黙「多文化・他民族共生と平和の模索:ユーゴスラヴィア支援の教訓を生かす」(第10章)、三好亜矢子「再び、『学び』から『未来』へ」(終章)など参考になる論考が掲載されています。

他方、「人々の生活を脅かしているさまざまな政治・経済・文化的背景の実情に迫り、暴力を生み出している構造を明らかに」しようとした第2部はやや突っこみ不足の感が否めません。高橋清貴「紛争と経済:私たちの日常が問われている」(第6章)は興味深い内容でしたが、HIV/AIDS(第5章)については国連特別総会や安全保障理事会などの動きも踏まえて執筆してほしかったし、ジェンダーの問題がコラム(245頁以下)に留まっているのも不満です。また、挙げていくときりがありませんが、麻薬や子ども兵士の問題もできれば取り上げてほしかった。

ついでながら、「イギリスは、欧州人権条約の国内法化を行っていない」という松本祥志の記述(第3章、133頁)はもう古くなってしまっています。1998年に制定された「人権法」(Human Rights Act 1998)で国内法化は達成されていますので、ご注意を。田島裕(著)『イギリス憲法典著作集〈別巻2〉:1998年人権法』(信山社出版・2001年)、江島晶子(著)『人権保障の新局面:ヨーロッパ人権条約とイギリス憲法の共生』(日本評論社・2002年)などの本が出ているようです。

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