■絵はがきにされた少年
*藤原章生(著)『絵はがきにされた少年』集英社・2005年
『フィリピンの少女ピア』のあとがき(こちらを参照)では、最後にいわゆる「災害ポルノグラフィー」(disaster pornography)にも言及しておきました。定まった定義がないようなので、とりあえず、「第三世界の紛争や天災の悲惨さばかりを取り上げ、『開発途上国の人々は無力である』『自分たちで問題を解決することができない』といったイメージを知らず知らずのうちに植えつけるような報道を批判する表現」と定義してあります。
このような問題意識を持っていたおり、本書を手にとってほっとする思いを感じました。毎日新聞の記者によるアフリカの状況のスケッチですが、読者受けするわかりやすいストーリーではなく、アフリカの地に暮らす人々のなまの姿を淡々と描き出すところに好感が持てます。それは、著者が持つ次のような性向に由来しているのでしょう(引用文中の「/」は原文の改行箇所を指す、以下同)。
「私はどうもこの『見出しどころ』にうとい。/やっかいなのは、はっきりと言い切れないことに、意味づけを求める人が結構いることだ。自分で納得できないことは胸の奥につかえる。なら、いっそのこと『これはこういう意味だ』と勝手な解釈を加えて、つかえたものを流してしまう。その方が楽だ。/だが、私はわからないことは胸につかえたままでいいではないか、と、思う方だ。現実を現実として放っておく方だ。答などないにしても、いずれは、それに一歩近づくときが来る、と思うからだ」(107頁)
表題作「絵はがきにされた少年」でも、ジャーナリスティックな「見出しどころ」を無理やりひねり出そうとする筆者と、被写体となった元少年との温度差が浮き彫りにされます。筆者が考えていた「被写体としてのアフリカ」「情報が決して還元されないアフリカ」といった「見出しどころ」とは裏腹に、当事者の老教師は「むしろ、家宝を撮ってくれて、いまも感謝しているくらいです」と述べるのでした(108頁)。
子どもの搾取との関連でもおおいに参考になるのは、南部アフリカの鉱山で働いていた元鉱夫(いまも息子が働いている)とのやりとりでしょう。彼らは「奴隷」なのかという質問に対し、元鉱夫は「初めて語気を強め」て次のように答えたそうです(127~128頁)。
「それは、とんでもない言い方です。奴隷だなんてことはありません。我々は鎖につながれて連れていかれたわけではないし、自分たちで、この足で、自分で決めて鉱山に行ったんです。あなたの国にあるようないい待遇ではないかもしれない。自分ももしかしたら体を悪くしたかもしれない。でも、我々はそれがわかっていて働いたんです。そして、働く、仕事を持てることが、こんなにも幸せなことだったのかと、わかったんです。そうです。我々は幸せだったんです。奴隷なんかじゃありません。そんな風に考えるのは間違っています」
著者は、「何も知らない者が、はたから彼らを見て、『会社側に搾取され、ひどい環境で働く犠牲者』と一方的にみなす方が、よほどひどい仕打ちに思えてきた」と記していますが、同感です。別の箇所で「対象についての知識がないほど、『助けなくては』というメッセージは響きやすい」(215頁)とも記されていますが、NGO活動に携わる者もよくよく考えなければならない点だと思います。
なお、1994年のピュリッツァー賞を受賞したケビン・カーター氏(故人)の写真「ハゲワシと少女」について、その背景が明らかにされた冒頭のルポも興味深く読みました。「飢えのためにうずくまる少女」がハゲワシの「獲物」になる寸前の情景をとらえた写真として論争を巻き起こし、日本の学校でも道徳等の授業でよく用いられているものですが、じつは母親はすぐそばにおり、ハゲワシもたまたまそこに降りてきてすぐに飛び去っていっただけなのだそうです(カーター氏とともに同じ地域で写真を撮っていたジョアオ・シルバ氏の証言、23頁)。カーター氏自身の説明(たとえばこちらを参照)とはニュアンスが異なりますが、授業等で取り上げるのであればこのルポは読んでおくべきでしょう。
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