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2006.10.06

■小さな手、折れた翼

*落合恵子ほか(著)/ECPATネットワーク(協力)『小さな手、折れた翼:子どもの性的搾取・虐待をなくすために』国土社・2000年

『フィリピンの少女ピア』のあとがき(こちらを参照)では、性的搾取の被害を受けた子どもについて「(粉々に)壊れてしまった」とか「(精神的に)殺された」と決めつけることの問題性についても指摘しました。その問題性を体現しているひとつの例が、本書です。不覚にも最近まで存在を知らなかったのですが、たまたま図書館で見かけたので読んでみました。現在売られているのは横浜会議(2001年12月)後に出版された増補版ですが、そちらは読んでいないので、以下の記述は旧版にもとづくものです。

楽しげな子どもたちの写真(長倉洋海・平早勉)、黒田征太郎によるイラストなど、親しみやすい作りにはなっていますが、第1章「子どもの居場所 ひとりひとりの子どもの人権と、ひとりひとりの大人の問題」(落合恵子)を読んでみて愕然としました。性的搾取・虐待の被害を受ける子どもたちの苦境に「想像力」を働かせるよう訴えながら、ステロタイプなイメージと陳腐な決まり文句に満ち満ちていたためです。たとえば次のような文章を見てみましょう(引用文中の「/」は原文の改行箇所を指す、以下同)。

「ほんの少しの想像力があるなら、わたしたちは容易に聞くことができるはず。『いい仕事がある』と騙され、『人買い』に買われ、『買春宿』に売り渡され、日に何人もの大人たちの歪んだ欲望……それは暴力そのものであり、魂の殺人である……の犠牲となり、自由を奪われ、性的にも経済的にも利用、搾取される子どもの叫びを」(7頁)
「その子に保障されているのは、あてがわれた汚く不潔な小さな部屋を訪れる見知らぬ大人たちに暴力をふるわれ、強姦される時空だけ。/ひとりの大人が出ていけば、その次の大人がその時空に侵略してくるだけ」(8頁)

確かに、このような状況に置かれる子どもたちも存在します。しかし、「ほんの少しの想像力があるなら」、こんな事例ばかりではないことは「容易に」知ることができるはず。子どもがどのように性的搾取の状況に導かれ、そこでどのような被害を受けるかは一様ではありません。その多様性を認めるところから、解決への道は始まるのです。このような一面的な描き方は、かえって「想像力」を阻害することにつながってしまいます。

それ以上に、子どもたちの被害を一方的に決めつける表現が多いことが気になりました。たとえば次のような一説です。

「わたしには彼女たちに、『大人になったら、なんになりたい?』と聞く権利はない。/なぜなら、彼女たちは大人になる前に『一度殺されている』からだ」(7頁)

物理的に死を迎えた場合を除き、「殺され」たと言えるのは被害を受けた子ども自身だけです。「大人になったら……」という質問は、確かに不用意にするべきではありません。けれども落合氏は、その質問を一律に封印することにより、被害を受けた子どもたちにも未来があることを否定しているのです。そのような表現はまだまだあります。

「ほんの少しの想像力があれば、わたしたちは見ることができるはず。/望まない性行為……それは強姦そのもの……に、こころもからだも蝕まれ、こころの奥から、からだの心から粉々に破壊されている子どもの、昨日と今日と明日を」(7頁)
「あなたがもし大人であるなら、想像してほしい。/あなたが運よくいま大人を生きていたとしても、あの子のような子ども時代を記憶として刻まれていた時、あなたはあなたの大人時代をすこやかに生きることができるか、を」(11頁)

被害を受けた子どもの立ち直りが困難な課題であることは間違いありません。しかし、「ほんの少しの想像力があれば」、それがけっして不可能ではないこと、苦しみを抱えながらも生き続けるサバイバーがいること、被害者の未来を一方的に否定する権利が第三者にはけっしてないことに気づくはずです。落合氏は最後に言います。

「その子の人生のあるじは、その子自身であり、その子は、あなたと同じ自己決定権を有した存在である。/その子には、誰のものでもない、その子自身のこころがあり、からだがある。それを奪い、利用することは、人間としてもっとも恥ずべき、忌わしい犯罪である」(12頁)

そのとおりです。子どもの「自己決定権」には、自らの経験を自分自身で定義する権利、ラディカル・フェミニズムの言葉を借りれば「命名権」も含まれます。被害を受けた子どもの経験を一方的に定義し、あまつさえその未来まで否定しまう権利は、他人にはありません。「それを奪い」、一方的な被害者像をキャンペーンのために「利用すること」は、むろん性的搾取・虐待の犯罪性とは比べ物にならないせよ、「恥ずべき」ことです。落合恵子氏にしてこのような文章を平気で書いてしまうことに、暗澹たる思いを感じました。

第2章「子どもたちに起きていること 世界が取り組んでいること」は執筆者名が「ECPAT」となっており、全体としては悪くありません。それでも次のような、子どもの未来を否定する表現が見られます。

「そんな子どもたちの行く末は、子どもらしい精神の破壊か、麻薬によって廃人となるか、エイズにかかって死への切符を手にするしかありません。万一生き延びたとしても、この悪夢の循環から永遠に抜け出せずに、のたうち回らねばならないのです」(19頁、強調引用者)

このすぐあとに、「この悪夢の循環から抜け出した少女たちを収容しているタイ国営の厚生施設が、バンコク郊外にあります」と続くのですが、こういう取り組みには意味がないということなのでしょうか。ちなみに、ある程度言葉に敏感な書き手なら、こういう場合に「収容」とか「厚生施設」(更正施設?)という表現を使うことには慎重になるでしょう。

本書にはECPATネットワークが協力しており、ECPAT/ストップ子ども買春の会(ストップ)とエクパットジャパン関西(エクパット関西)も一部執筆しています。しかし両団体のウェブサイトを見ると、ストップの刊行資料・本コーナーでは本書が非常に好意的に紹介されているのに対し、エクパット関西の本紹介コーナーではその存在にすら触れられていません。あくまで「人権」を基調に据えて活動を進めるエクパットジャパン関西の、ひとつの見識が示されているというべきでしょうか。余談ながら、国際ECPATのウェブサイトでは両団体ともECPATグループのひとつに挙げられており(トップページ下の「links to ECPAT Group websites」参照)、エクパット関西もリンク集でストップへのリンクを張っているのに対し、ストップのリンク集では、「各国ECPAT」として国際ECPATと台湾・スウェーデン・オーストラリアの各ECPATが挙げられるのみで、エクパット関西には触れられていないのも興味深いところです。

ちなみに、狭いかごに閉じ込められて涙を流している鳥のイラストが扉に描かれているところを見ると、書名にいう「折れた翼」は、天使の翼ではなく鳥の翼を指しているようです。この点、『フィリピンの少女ピア』のあとがきで取り上げた子どもの「天使」扱いの問題からは免れているのですが、しかし「小さな手」という言葉は依然として思春期前の子どもを連想させます。本書に掲載されている写真(被害当事者の写真を出さないというのは見識です)も、ほとんどすべてが思春期前の子どもが被写体となっているようです。あとがきでは「性的搾取の被害を受ける可能性は思春期以降のほうが高いにも関わらず、そのような子どもたちの状況に十分な関心が向けられてきたとは言いがたい」とも指摘しておきましたが、その点はあいかわらず克服されていないというわけです。

本書をこのまま販売し続けるのかどうか、ちょっと考え直したほうがよいのではないでしょうか。

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